2012年5月22日火曜日


 (16) 奥の細道 「平泉」

藤原三代の栄華。平泉を訪れた人達は、一様に、時代の有為転変を、不思議のように味わうだろう。それほどに、丘稜 と林に囲まれた、あまりにものどかな田園風景が此処には広がる。中尊寺金色堂で語られる、黄金の文化の、面影はどこにもない。毛越寺の隣、王家の居館跡 の、巨大な敷石の群れを眺めても、この感懐は変らない。しかし、清衡、基衛、秀衛、・・・・・・・なかでも、三代目・秀衛が治める王国は、特に、強い勢力 を近隣に謳われていたという。

此地で、16歳の少年・牛若丸が、厚く庇護されるようになった経過は省こう。
それより以前、「保元の乱」では味方として、それぞれの親族を破った二人・・・・・、平清盛、源義朝が、次の「平治の乱」で、遂に雌雄を決することにな る。敗れた義朝の遺児たちは、四散して、やがて1180年(治承4年)になって、頼朝のもとに、成人した姿を見せることになる。

しかし、実の父にも勝る庇護者・藤原秀衛は、繰り返し、義経の出征を、押しとどめた。この賢者の目には、「事の行末」があまりにもよく見えていた。義経の 内にたぎる、源家の血がなせる業なのか。あるいは、生れついた戦略家としての才が、そうさせたのか、・・・・・・後世にまで語られる、「肉親相食む源家の 血筋」という運命に自らを投げ入れて行くことになる。

次兄・範頼が、数ヶ月を要して停滞した戦線を、義経は、僅か一ヶ月そこそこで収拾した。「一の谷」に続く「屋島」、「壇ノ浦」での完勝、そして平家の滅亡である。
北条家を中心とした、関東武者たちの権謀術数、源家総大将・頼朝の生まれながらの猜疑に歪んだ術策・・・・・、この環境で義経は、つまり、政治的感覚の全 く欠如した「軍事的天才」は、やがて、反乱者の汚名を着せられることになる。義経の逃亡生活は、京を中心に吉野にまで及んだ。そして、彼の行き先は、結 局、平泉しかなかった。
陸奥の王・藤原秀衛は、わが事のように喜び、義経を心から迎えた。

藤原四代目・泰衡は、いかにも暗愚の将として、今日に伝えられている。父・秀衛の遺訓は、たしかに、胸の奥に常に残っていた。「今日の源家の天下は、一 人、九郎殿(義経)の才によって、成し遂げられたもの。この九郎殿が、居るかぎり、ここ平泉王国は、誰が狙おうとも微動だにしない」。にもかかわらず、泰 衡は、鎌倉政府の執拗な要請に従ってしまう。
泰衛の急襲を受けた義経の陣容は、あまりにも手薄だった。今日にも残る「義経堂(高館)」を中心とした奮戦も及ばず、全軍が敗死した。

「弁慶の立ち往生」。少人数の守勢の先頭に立っての、忠臣・弁慶の大往生。全身に数十本に及ぶ矢を浴びていた。幼い頃、母親たちの口をとおして聞く物語。 この伝説(衣川)は、牛若との出会い(京・五条大橋)と同様、真偽の程は明らかではない。だが、衣川に北上川が交わる辺りの古戦場の姿は、丘に密生する木 立の隙間を通して、いかにも物悲しい。
「暗愚の将」とは言っても、藤原泰衡は、その王国の総大将に違いなかった。王国の多勢が、事を成就する・・・・・・・、そのとき、もう一つの悲劇が、僕の 想念に入り込む。日ごろ、義経びいきとされた豪胆な弟・忠衛も、兄・泰衡の攻撃によって、討ち死にした。後世に数多く語られ、伝えられてきた、肉親相食む 源家の相克は、ここ奥州の地にも波及したのだ。

稀代の軍略家・義経の首級が届けられれば、兄・頼朝にとって、また鎌倉軍団――、この恐るべき侵略集団にとって、もはや敵は無いに等しかった。藤原王国の滅亡は当然の帰結であり、義経亡き後、その帰結は、目前の出来事に過ぎなかった。

「衣川」とともに、芭蕉の記述にある「和泉が城」とは、あの不運な藤原忠衛の居城である。・・・・・・夏草や、つはものどもが夢のあと。

詩人・松尾芭蕉の俳句と叙述に、ロマン的描写を見出すことはできない。中世文学(平家物語、太平記など)に特有の「叙事的記述」の影響かもしれない。僕は・・・・・、そして多くの人達は、義経の悲運、また忠衛の無念を、この短い詩句に見出すことになる。


[後日談]
奥州侵略後、源頼朝は、今度は弟・範頼を粛清する。まるでスターリン、と僕は思う。だが、スターリンの死後、この政権を支えた、副首相マレンコフ、 GPU(KGBの前身)長官ベリアの内部抗争を経て、やがて、ブレジネフ、フルシチョフたちによって、スターリン一家は消滅する。

頼朝死後、後継者、頼家と実朝の宿命的な相克。頼家に替って宰相となった実朝は、頼家の子・公暁によって暗殺される。暗殺者・公暁は、「乱心者」として処罰され、頼朝直系の血筋は完全に絶えた。
全ては北条家の謀略である。子息達は、父・時政に倣って、源家の後ろ盾となりつつ、その滅亡を図った。北条義時の冷酷さは、性格破綻者・頼朝とは違い、時代の実権を掌握する適性と言えるのかもしれない。それは、スターリンに替わったフルシチョフに、いかにも類似している。

  • 編集日時:2012/1/23 18:36:09
  • 回答日時:2012/1/21 18:41:33

 (15) ピエタ

スターバト・マーテル・ドロロサ(Stabat marter dolorosa)の言葉で始まる聖歌は、多くの人々に親しまれてきた。多くの作曲家たちは、16世紀から20世紀へと、長い歴史を刻んできた。――パレ ストリーナ(16世紀)、ヴィヴァルディ(17世紀)、ベルゴレージ(18世紀)、ハイドン(18世紀)、ロッシーニ(19世紀)、ドヴォルザーク(19 世紀)、プーランク(20世紀)、ペンデレツキ(20世紀)などなど。そして、このセクエンツァ(続唱)は、「哀しみの聖母は立っていた」の意を伝えてく る。

質問の「ピエタ」は、この哀しみの聖母を表現した一つの図柄で、キリスト教図像学は、ピエタ像が現れる以前からの「聖母の哀しみ」を定めていた。14世 紀~15世紀末にかけて、それは「七つの喜び」、「七つの哀しみ」として、14の数字になった。14に及ぶ出来事は、聖母マリアが現れる重要な場面とし て、歴史的、崇敬的の意味を持ち、美術の上で表現されてきた。

「七つの喜び」は省略し、「七つの哀しみ」のみを提示する。
1)シメオンの予言
2)エジプトへの逃亡
3)聖殿にイエスを探す
4)十字架を担うキリストとの会合
5)磔刑
6)十字架降下
7)キリストの埋葬

上記5)、6)、7)、つまりキリストの死に伴う聖母の哀しみは、聖母の同感受難(コンパッシオ)として表現されてきた。このコンセプトの内に「ピエタ」 が現れたことは自然な事といえるだろう。だが、例えば、6)十字架降下の画が縦型であるのに対して、ピエタは横型であることを、図像学は明示している。

カトリック信徒たちは、そこから進んで、更に重要な主題を理解していくことになる。それは「ロザリオの十五玄義」だが、その説明もここでは省略しよう。ただ、「ロザリオの祈り」が、「主の祈り、聖母マリアへの祈り、栄唱」の三つから成ることだけを、記しておきたい。

「哀しみの聖母(mater dolorosa)」の表現図の中に、ヴェスペルビルト(ピエタのドイツ語、Vesperbild)が入ってきたのは13世紀の終わり頃、ドイツのケルン においてだった。14世紀に入って、この像はドイツでは盛んに作られた。このヴェスペルの意味は、聖務日課の中で、数えて7番目の晩課の名称であり、ヴェ スペルビルトは、やがて、ラテン語系のイタリア人によって、ピエタと名づけられることになった。イタリア、フランスでは14世紀から15世紀にかけて、こ の像は多く作られたが、ただ、この時期は、ルネッサンス以降とは違い、絵画よりも彫刻に多くの作例を見ることができる。

したがって、質問にある、中世の作品とは言っても、5世紀から始まる約1000年の期間(歴史学が区分する中世)の中で、作品の多くは近世に近い時期から、近世を経て、今日に到るまでの間に多くが創られていった。
しかし、フランスでは「アヴィニヨンのピエタ(1455年、ルーヴル美術館)」以前には、殆んど作例を見ることができない。

一つの例示。僕がしばしば訪れたシャルトルの聖堂は、フランスに数多い「聖母マリアの家(ノートル・ダム・カテドラル)」の中でも、パリと並ぶ歴史を誇っ ている。だが、大火災のあと、ゴシック建築として再現したのが13世紀であるため、「ピエタ像」を、この聖堂内では見ることができなかった。有名なステン ドグラス芸術は、その殆んどが聖母マリアに関する事柄であるが、ピエタが無いということに、僕は初めの頃、驚きを覚えたものだ。

「ピエタ」の作品例を下に示そう。

ミケランジェロ「ピエタ」 1498年 - 1500年 彫刻 (聖ペトロ大聖堂、ローマ)
シャロントン 「アヴィニヨンのピエタ」1455年頃(ルーヴル美術館)
作者不詳 「イエスの死を嘆くマリアと題されたピエタ」 1464年、板画(ルーヴル美術館)
シントヤンス 「キリストの哀悼」1484年、油彩(ウィーン美術館)
ベッリーニ 「ピエタ」1460年、テンペラ(Pinacoteca di Brera美術館、ミラノ)
カラッチ 「ピエタ」1599年頃、油彩(カポディモンテ宮殿美術館、ナポリ)
ボティッチェリ 「死せるキリストの哀悼」 1492年頃、板 テンペラ(ポルディ・ペッツォーリ美術、ミラノ)
作者不詳 「ピエタ」1164年(聖パンテレイモン教会、マセドニア共和国、ネレジ)
リーメンシュナイダー 「嘆き」1510年 リンデンバウム木製 彫刻
作者不詳 「哀しみの聖母」 1230年頃 木製彫刻 (北ドイツ)
作者不詳 「ピエタ」 14世紀中頃 (スタイグ、ドイツ)
マルエル 「ピエタ」 13世紀頃 (ルーヴル美術館)
ドラクロワ 「ピエタ」 1843~44年 油彩 ワックス (サン=ドニ・デュ・サン=サクルマン聖堂壁画、パリ)
ゴッホ 「ピエタ(ドラクロワの模写)」1889年 油彩(Rijksmuseum Vincent van Gogh, アムステルダム、オランダ)

わが国に珍しい「ピエタ」のレリーフ板がある。徳川時代に使われた「踏み絵」だが、この金属板の図柄は単純な「聖母とキリストの図」となっている。東京国立博物館の所蔵品。

  • 編集日時:2012/1/16 08:39:21
  • 回答日時:2012/1/16 01:54:37

 (14) 世界のバレエ団 ベスト6

世界のバレエ団を、僕はベスト・6で考えています。

1)パリ・オペラ座バレエ (Ballet de L'opera National de Paris) (1661年設立・フランス)
2)ボリショイ・バレエ (Bolshoi Ballet) (1776年設立・ロシア)
3)キーロフ・バレエ (The Kirov Ballet) (1783年設立・ロシア)

4)ロイヤル・バレエ (The Royal ballet) (1931年設立・イギリス)
5)アメリカン・バレエ・シアター (American Ballet Theatre) (1940年設立・アメリカ)
6)ミラノ・スカラ座バレエ (Il Corpo di Ballo del Teatro alla Scala) (1813年・ただし学校設立・イタリア)

上記のうち、例えば4)ロイヤル・バレエは、フレデリック・アシュトン、ケネス・マクミランという優れた振付師に指導され、その伝統の輝きが今日伝えられ ているが、それでも設立は第二次大戦の少し前に過ぎない。あの名画「哀愁(Waterloo Bridge 1940年)」のヒロインがバレリーナであることは、映画を見た全ての人の記憶に残っている。だが、舞踏家としての地位の低さが、浮き彫りにされていた。

ABT(アメリカン・バレエ・シアター)の充実過程は、目を見張るものがあった。例えば、ニューヨーク・フィルが、ヨーロッパの優れた演奏家たちを招聘 し、世界をリードするオーケストラの一つになった事実は、学術、芸術を尊重するアメリカの、一つの伝統でさえある。例えば、70年代に、ソ連から亡命した ナタリア・マカロワ、ミハイル・バリシニコフをスーパースターとして受け入れ、やがて芸術監督としての立場を与えるなど、自国の芸術的発展に大きく貢献し た。また、最近までの、スターダンサーとして、イタリアからのアレッサンドラ・フェリ、ロシアからのニーナ・アナニアシヴィリ、アルゼンチンからのパロ マ・ヘレーラなどが有名。当然、こうした環境からアメリカ出身のアマンダ・マッケロー、ジュリー・ケントのような優れた踊り手が輩出した。

ミラノ・スカラ座バレエは、最近まで、日本になじみの薄いバレエ団ではあったが、カルラ・フラッチに加えて、アレッサンドラ・フェリの移籍入団、ボリショ イからスヴェトラーナ・ザハロワの客演が昨今では知られている。しかし、すでに、ロベルト・ボッレ、マッシモ・ムッルなどの男性スターは揃えていた。上記 のA・フェリ、S・ザハロワの「ジゼル」の舞台では、イザベル・シアブラ、マルタ・ロマーニャが見事な「ミルタ役」を踊っている。また、R・ボッレと見事 なペザント・パ・ド・ドゥーを演じたベアトリス・カルボーヌなどの新星が光を放った。

上記バレエ団の1)、2)、3)は、いずれも古い歴史と伝統を誇っている。中でも、ロシアに数多い、優れたバレエ団は、ボリショイ、キーロフに肉薄する充 実を見せている。例えば、キエフ・バレエ、レニングラード国立バレエ、モスクワ音楽劇場バレエなどである。とは言え、ボリショイ、キーロフが輩出させた優 れた舞踏家の数は世界にも類を見ない多さである。例えば、ガリーナ・ウラノワ、マイヤ・プリセツカヤ、ナタリア・べスメルトノワたちが積み上げてきた輝く ような実績は、ロシア・バレエ史を紐解く私達に大きな感動を与えてくれる。

しかし、パリ・オペラ座バレエの歴史は世界舞踏史の中で、燦然と光を放っている。付属学校での厳しいトレーニング、ここでのバレエ団入団試験に落ちた生徒たちは、他のバレエ団に迎えられていく。バレエ団内での昇級試験も厳格を極めている。
1960年、著名な文人アンドレ・マルローが文化大臣に就任以後、フランス芸術界の刷新改革は一段と歩みを強め、この伝統を背負ったパリ・オペラ座バレエ も、クラシック・バレエだけに留まらず、現代舞踊への責務も負うことになった。こうした中から、優れた舞踏家が続々と誕生したが、それに環をかけたのが、 ソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフの強靭なコンセプトに他ならない。
パリ・オペラ座出身の逸材は、数え切れない多さである。その中でも、僕は、マリ・クロード・ピエトラガラ、エリザベト・プラテルをこの上ない代表として列 挙する。新しいところでは、アニエス・ルテステュ、男性ではマニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュなどを挙げる事ができるだろう。特にマニュエル・ル グリは、R・ヌレエフが最も期待した男性舞踊家であった。

他に優れたバレエ団を挙げるとすれば・・・・・・・・・。

ニューヨーク・シティ・バレエ
ハンブルク・バレエ
シュトゥットガルト・バレエ
ネザーランド・ダンス・シアター
デンマーク・ロイヤル・バレエ
オーストラリア・バレエ
ナショナル・バレエ・オブ・カナダ

などがある。

  • 編集日時:2012/1/9 20:41:14
  • 回答日時:2012/1/9 20:31:04

(13)  ピアニスト、ラドゥ・ルプ

ピアノ協奏曲23番 イ長調 K.488

期せずして同じ作品が推奨されたようですね。おそらく、皆さんも、僕と同様に、モーツアルトのピアノ協奏曲の殆んど全てが好きなのではないでしょうか。

「イ長調」は、この上ない純粋なモーツァルトが直接的に現われている、と言われている。ピアノ協奏曲としては、他に、12番 K.414があるが、優雅で明るい伸びやかな旋律は、≪イ長調のモーツァルト≫という創意と楽想を示した。この姿がのちの23番K.488の協奏曲で、完 成した形として現われている。だが、ピアノ協奏曲としては、27曲中、イ長調はこの2曲だけにとどまった。

23番では、第一楽章(イ長調)において、管弦楽と独奏ピアノが、同一の主題を奏している。これが、この曲の密度を直接的に高めている。この「イ長調」を 他の楽器の曲にたずねてみよう。例えば、クラリネット曲では、有名なクラリネット協奏曲も、クラリネット五重奏曲もそうであるが、ヴァイオリン協奏曲5番 とともに、ここでも≪イ長調のモーツアルト≫の特色がうかがわれる。

日本では、おそらく市販されていないと思うが、僕がイギリス滞在中にテレビで放映された、次の演奏を、僕としては最も薦めたい。TV放映は2001年だ が、ウィーン・フィル創立150周年(1992年)記念のイベントとして開催された「ガラ・コンサート」の録画である。2001年に録画した、この「ガ ラ・コンサート」は、今でも僕の宝物の一つとなっている。
おそらく、輸入版としては、DVD、CDともに入手できるのではないだろうか。

指揮者が、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院教授のシャンドール・ヴェーグというのも、非常に珍しい。彼は指揮棒を使わず、椅子に腰掛けたまま指揮しているが、独特の味わいを見せている。
ピアニストについて言えば、モーツァルトのコンチェルトでは、優れた演奏家たちの多くが、CD・DVDに演奏を残している。たとえばクララ・ハスキル、ル ドルフ・ゼルキン・・・・・・、新しいところでは、マウリッツィオ・ポリー二、イモジェン・クーパー、アニー・フィッシャー、内田光子などなど、多彩な顔 ぶれである。
僕の宝物は、ラドゥ・ルプの演奏です。モーツァルト、ブラームス演奏家として有名。彼独特のリリシズムが画面いっぱいに伝わってくる。

  • 編集日時:2011/12/28 12:21:32
  • 回答日時:2011/12/27 11:25:40